下の娘がまだ小さかった頃の話しです。
春早く咲き出した野の花を見付け、「綺麗な花が咲いてるね」と子ども達に話しかけたことがあります。息子は「本当だ。きれい」と言ったのですが、娘は花とは違う隣の枯れ草を見つめて可愛い声で「きれい」と言ったのです。僕と奥さんは「そっちじゃないよ。こっちのお花だよ」と返し、「可笑しな子。枯れ草を見てきれいだって」と笑ってしまいました。しかし今になって、なんてダメ親だったろうと思うのです。娘は枯れ草に美を発見したに違いありません。一緒になって共感してあげれば良かったと反省しています。綺麗と共感しなくても、馬鹿にするのではなく、せめて「そっちも綺麗かも知れないけど、こっちのお花はもっと綺麗じゃない?」とか。
親子で綺麗とか楽しいとか美味しいとか様々に同じ感情を共有し、その一瞬一瞬の記憶にも残らない軽い羽毛のような思いが潜在意識下に降り積もり、それが心の土台を作っていくのではないだろうか。しかしその羽毛はいつも白く軽く心地よいものばかりではなく、ネガティヴな黒い羽毛も混じっているかも知れない。その黒い羽毛ばかりが積み重なると、いつかそれが表面に顔を出し、様々な症状となって出てくるのだろう。自分自身白い綺麗な羽毛ばかりであるはずがなく、黒い羽毛も混じっている。要はその比率なのかしらなどと考えていました。
そうだとしたら黒い羽毛ばかりだったとしても、その上を白い羽毛で覆ってしまえば、その症状は軽くなるのかも知れません。
連休で札幌に行き、フェリーの中で読んだ本の影響か、娘の顔を見ながらそんな昔のことを思いだし、白い羽毛を空想していました。
今度の日曜日は久し振りに何もない休日です。来週は大自然レポートをお届けできると良いなと思っています。